2012年6月26日火曜日

キリスト教って何だべ?






6/26/2012 Day 373





さて。



キリスト教とは何か。




そんな疑問を日本人の多くは持っていると考える。




仏教、イスラム教に並ぶ世界3大宗教の一つ、「キリスト教」
その信者数は目下、21億7000万人。
世界の総人口の3分の1がキリスト教徒ということになる。

キリスト教の神とは、天地宇宙の創造主として唯一絶対の支配者である。
基本的にユダヤ教の神の理解を引き継ぐ。
それは人間と契約を結び、救おうとするが、同時に神に背くものには厳しい裁きを下す神である。

さて、神様なんて出てきて話も壮大になってきたところだが、キリスト教と言ってもいろんな宗派がある。

大きくわけて、

東方正教会
ローマ・カトリック教会
プロテスタント諸教会

の3つである。

さかのぼるは、4世紀末。
キリスト教はローマ帝国の国教となったものの帝国自体が東西に分裂。


その際に、要は考え方の違いも生まれ、
「西方教会(カトリックと称した)」と「東方教会(オーソドクスと称した)」とに分かれることになる。


やがて西方は東方を破門。そこで東方は独自の文化を発展させていったのだ。



残された西方だが、堕落してきた教会をルターが文句を言い、彼が教皇に破門される形で、「プロテスタント(抵抗者)」が誕生した。

これが大きなキリスト教の流れである。

お分かりいただけただろうか。


このように分裂を繰り返しながら今の「キリスト教」ができあがったのだ。





一つ一つ解説していこうか。

ローマ・カトリック教会
一番信者が多い。11億人以上。
ローマ教皇を頂点といた、ピラミッド型の世界統一組織を持つ。
このローマ教皇は地上に置けるキリストの代理人と考え、マリア崇拝・聖人崇拝が盛んである。

宗教画、ステンドグラス、聖人の像などが教会に飾られている。
南欧、中南米、フィリピンなど盛んだ。





プロテスタント諸教会
信者は4億5000万以上。
カトリックから分裂したプロテスタントは文字通り、カトリックとは異なる性質を持つ。
キリスト教徒は皆平等という信条のもと、聖職者と一般信者の身分的違いは存在しない。
「聖書のみをよりどころとする」という宗教改革の原理から、マリア崇拝などは存在しない。
もちろん、聖書のみがよりどころとするため、絵画、ステンドグラス、彫像などに大きな価値を置かない。偶像崇拝は認めない。
アメリカ、イギリス、西欧など盛んだ。


東方正教会
2億以上の信者を抱える。
国や地域別の最高位聖職者「総主教」はそれぞれ同格・同権で、ローマ教皇のような単一のトップは存在しない。
ローマ教皇の権威は認めないが、マリア崇拝・聖人崇拝は一般的。しかし偶像崇拝は避けるため、平面画であるイコン(聖画像)のみ存在している。
ロシアなどの旧ソ連圏、東欧が中心だ。





さて一つ気になるのが、偶像崇拝だ。

旧約聖書のモーセの十戒をご存知の方は分かると思うが、そこには「いかなる像も作ってはならない。それらに向かって、ひれ伏したり、仕えたりしてはいけない」とある。
しかし、ここグアテマラでもカトリック教会へ行くとキリストの像が数多く描いてある。
識字率の低い時代に民衆に聖書を渡しても意味はない。
その為イメージ、図像による不況は不可欠だったのだ。視覚情報を与える為の苦肉の策と言えるか。

「聖画は偶像崇拝ではなく、描いた顔を拝んでいるのではない」と主張する。その向こうの聖なるものに対する崇拝だという。




さて、史上最大のベストセラーとは何か。
史上最大のロングセラーとは何か。

それは『聖書』だ。


ギネスブックによると、累計発行部数は約3880億冊にも達すると言われれる。




これは『旧約聖書』『新約聖書』の二つから構成される。

キリスト教はユダヤ教の教典を受け継ぎそれを『旧約聖書』と呼んでいる。


この聖書、実は著者が存在しない。もちろんイエス・キリストでもない。
聖書は数多くの書き手によって記され、さまざまな編者によって整理されてきた。
作られた時代も違い、ここの書物の集成として成立した。


『旧約聖書』ではイエスが誕生する以前のことが書かれている。
『新約聖書』ではイエスが誕生した以降のことが書かれている。

ところでこの旧約という言葉、それはつまり「古い契約、約束」を意味する。
それはアブラハムやモーセといった仲介者を通してイスラエル民族が神との間に結んだ契約で、律法を守るならば、神は祝福し、繁栄を導くというものだ。
「天地創造」を初めとする、神や予言者のエピソードが綴られている。
神が6日間で天地とその秩序を創造したり、アダムやイブの禁忌、カインとアベル、ノアの方舟と大洪水、バベルの塔、モーセと十戒、ダヴィデなど、聞いたことのある話がここには詰まっている。


では新約とは「新しい契約、約束」ということになる。
『旧約聖書』がユダヤ教の教典であるならば、『新約聖書』はキリスト教オリジナルの聖書。
イエスが人類の救済者として生まれて、十字架の上弟子に、復活したことで成就したことを伝えている。
イエスの弟子たち彼の死後から書き、4世紀末に正典となった。
マリアの聖性を裏付ける誕生と結婚、受胎告知、厩(うまや)での降誕、東方三博士の礼拝、出エジプト記、キリストの洗礼、マグダラのマリア、水をぶどう酒に変えた話、蘇生させた話、ユダの裏切り、最後の晩餐、むち打ちと磔刑(たくけい)、復活、最後の審判など、絵画でも有名な話が含まれている。




聖書の内容はここでは紹介しきれないが、概要だけでも知っておくことに損はないだろう。


キリスト教は比較的新しい宗教、神話と言ったら失礼だろうか、しかし、そういったものはどれも似たようなひな形が存在する。
神が天地を作り、人を作る。
裁きがあれば、冒険もあり、どろどろとした話はもちろん、人間の不完全さ、そして世界の最後など実は似たような話があるのだ。
では一番最初の神話は一体何を元にして作られているのか。
不思議な話だ。


私のいるグアテマラはキリスト教、特にカトリックが盛んだ。
知れば知るほど、奥の見えないキリスト教。
だからこそ、余計に神秘を感じざるを得ないのも事実だ。


日本人は無宗教と言われるが、信じることの大切さ、そしてその存在がいるといないとでは大きく違うだろう。

どの宗教がよい、悪いではなく、自分にとって何を信じるのか。そこに大きな何かがある気がする。
もちろん宗教によって相容れないのはものすごく悲しい話だ。
しかし、現在では、カトリックもプロテスタントも相互を認めつつある。
いつの世になるかは分からないが、宗教の壁を越えて世界中の人間が手をつなげる日が来ることを祈りながら、はたして誰に祈るのかを考えながら、寝るとしようか。






P.S.
前から気になっていたこと。


どうして「キリスト」は魚なのか?
この国に来てよく魚にイエス・キリストを表す言葉が書かれているのを見る。


古代ギリシャ語で「魚」を意味する「イクティス」は綴りが「イエス・キリスト、神の子、救い主」という単語の頭文字と、偶然一致した。


そのため魚の印は、キリスト教が非合法だったローマ時代に、信者だけの符号として使われた。


というわけで魚は神聖なシンボルなのである。








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